@海源寺(かいげんじ)



海源寺と日朝上人
 昔、日朝上人(にっちょうじょうにん)が日蓮宗の総本山、身延山久遠寺一のお坊さんになられる1、2年前のことです。上人は、愛甲郡飯山村の金剛寺に、尊いお経があることを耳にして、それを習おうと、たびたび鎌倉から足を運ばれていました。
 ある日のこと、上人(しょうにん)が海老名にさしかかると、天気は次第に崩れ始め、ついには暴風雨に変わってしまいました。上人は雨と風に打たれ、歩行もままならず、やっとの思いで中新田へたどり着きました。
 このありさまを見ていた豪族大島豊後正時(まさとき)は、上人を気の毒に思い、見兼ねて屋敷に招き入れ、手厚くもてなしました。
 正時はその夜、上人と語り合ううちに、かつて強い信頼で結ばれていた、友の海老名弘治・弘信(ひろはる、ひろのぶ)親子のことを思い出し、彼らの冥福を祈ってほしいとお願いしました。すると、正時の親切を肌で感じた上人は、その願いを聞き入れ、その上、五日間にわたって、法華経という尊いお経まで教えてくださいました。
 その後正時は、日蓮宗と日朝上人の教えを深く信じ、自分の屋敷の近くに寺を建て、また別の土地を寄付して、上人にぜひお寺を開いてほしいと願い出ました。上人は喜んでその願いを受け、その寺を長高山(ちょうこうざん)海源寺と名付けました。
 これが海源寺(かいげんじ)誕生の由来です。 
長い間、目の病気に苦しまれた上人が、この世を去る際、「死後は、目の不自由な人のために役立ちたい。」と言われことから、大正のころ、命日になると上人のお墓に小さなダンゴを供えたりする「お目の玉」(おめのたま)という風習が起こり、眼病祈願にお参りする人も少なくありませんでした。
                             (えびなむかしばなし 第3集より)


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