N義民・鈴木三太夫
鈴木三太夫の霊堂 義民・鈴木三太夫翁之碑
 
義民・鈴木三太夫の伝説
 17世紀後半の大谷村などは旗本町野氏の領地であった。町野幸重(ゆきしげ)は領民から多くの年貢を取り立てたので凶作の時などは人々は非常に苦しんだ。大谷村の名主であった鈴木三太夫(三左衛門)は、村人の苦しみを見るにしのびず何度も町野氏に訴えたがかえって逆効果となった。そこで三太夫は直接幕府に訴えようとしたが、直前に発覚して捕らえられ今里村にあった町野氏の代官所で斬首された。1683年(貞享元年)4月27日のことであった。この時、2人の子どもまでも斬首された。妻は前もって離婚させられていたので難はのがれたが、夫と子どもだけ処刑されたことを聞いて翌日自害した。大谷村の妙常寺の住職は、せめて2人の子どもだけでも助けようと馬を走らせて、今里村の代官所へ向かったが間に合わなかった。そこで3人の首を持ち帰り寺に埋葬した。
 現在、今里の中央農業高校の校地内の処刑場跡には小さな社がある。また大谷の三太夫(三左衛門)の屋敷跡には霊堂と「義民鈴木三太夫翁之碑」が建立されている。

◆江戸時代は領民が領主を通さず直接幕府へ訴えることは越訴(おっそ)といって禁止されていた。

◆義民とは、村(集落)などのため命をかけて年貢などを下げるように直訴した人をいう。

◆鈴木三太夫と二人の子どもの墓は大谷の妙常寺にあるが、この出来事は話として伝わっているだけで記録は残っていない。

       わたしたちの海老名(中学校社会科資料集)平成22年度版より引用


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